最近のメディア論の盛り上がりについて思うこと
最近、ほうぼうでメディア論というか、コピペ編集の話やら、色々騒がしくなってきました。
つい先日もこんな本を読みました。
もろもろ思うところも多く、ちょっと偏りはある本ではありましたが、1つの真実であることは確かだな、と思って読んでいました。
それにしても、こんなふうにメディアの裏側にフォーカスが当たるようになったのはほんとここ最近な気がします。
先日飲んでいる際にも、「最近メディア論が結構出てくるようになったね」という話をしていたのですが、そこの背景にあるのは、
・SEM、DSP、DMPなどデマンドよりの技術/トレンドがひと段落
・つぎの盛り上がり(マネタイズ)ポイントをパブリッシャー側に求めた
という点なのかもしれません。
いま、流通しているコンテンツは、
・ニュースなどの時事情報コンテンツ
・役に立つハウツー型の情報コンテンツ
・ためになる知識欲充足型の情報コンテンツ
・おもしろい、みんなで楽しむコンテンツ
・どうでも良いコンテンツ
これが等しく、共通のプラットフォーム上に何のラベリングもなく流れているような状態になっています。
どうしてこんな状態になったのか?ちょっと整理してみました。
結局、WEBテクノロジーが発達して、だれでも簡単に情報を発信できて、流通させられるようになったから勘違いが起きているだけなんだと思う。
まだインターネットがないころは、新聞や雑誌の編集・記者って憧れの存在だった。手に職をもった、まさに職人だった。毅然とした態度で、そんなのは書けません、と言っていたものだった。(と僕は認識していた。)
僕は紆余曲折を経ながらも、そこに興味を持ちまがりなりにもライターになった。(通販雑誌ですが)それが、ブログというPlatformの登場により、日記のような日常の他愛ないことをWEB上にアップできるようになった。これまでは、そういった内容はペンで紙の日記に書いていて、誰の目にも触れることなく、いやむしろ自分の秘密をこっそり書き溜めるような感覚でいたものが、「みんなに見て欲しい」「わかってほしい」「共感がほしい」といった承認欲求や自己顕示欲が強くなっていった。
(※そこでお金を稼ぐという感覚も併せて生まれた)
そのうち、ブログにアップしただけでは、誰も見てくれない(なかなか儲からない)というのを痛感している人たちにの前に、twitterやらFacebookが登場した。とくにこれまでのブログも、なんだかんだいって数百文字とか数千文字とか書いていたのでなかなかな労働だったはずだ(3日坊主体験の人も多いと思う。それが短文で簡単に世の中に発信できるようになったから、だれでも彼でも「特殊な能力」がなくても、ライター気分で情報発信ができるようになった。
人の記事やニュースを引用しては、ちょこっと意見をいうだけの人たちや、どうでもいいくだらない話、それは実話なのか、と疑うような内容(でも注目を集められそうなこと)を書く人など、みんな見てもらいたいから、必死になった。
その結果、まさに玉石混交、有象無象のコンテンツが流通し始めた。
ただ、これはあくまでも状況の話だ。
旧来型のちゃんと記事を書いているメディアたちが、こうやって変わっていく世の中に対して、手を拱いていたことも事実だ。玉石混交のコンテンツを取りまとめる「スモールメディア」が増えたところで、「どうということはない」と上から見下していたのかも知れない。
ただ、その結果、広告主は増えていないのにスモールメディアばかり増えていき、とはいえユーザー数も広告主数も増加しないので、需要と供給のバランスは完全に崩れた。
運用型広告を取り扱う事業者は取り扱いのimp量を求めて、上述のスモールメディアにも導入を進める。そして、このメディアたちはコンテンツを創らないのでマネタイズを、アドネットワークに頼る。
こうして供給過多の世界になった上で、どこに掲載されるいるかではなく、人にターゲティングしよう、という話がいいように使われる。ユーザーのマインドは「休息中のスキマ時間」なのにもかかわらず、「保険に入りませんか?」「●●買いませんか?」といったターゲティングバナーが並ぶ。
そこにクリックを求めても難しいし、コンバージョンなんてなおさらだ。
※もちろん、何もターゲティングしないものよりかは効果あると思いますけど。
これは「枠から人」というふうに煽った弊害でもある。本来は「リタゲしましょう」と言った言葉ではなかったはずの言葉で、広告業界が次のステージにいくためのフレーズだったはず。各メディアたちも広告主も等しくユーザーを向いてアプローチしましょう、という言葉だったはず。
広告枠がどうこう、というよりも、その人がある面に訪れているときのマインドを大事にしましょう、という意味だったと思うのですが、額面どおりに受け取った人々による、単純なリタゲが生み出すCTRに狂喜乱舞した人たちがいた。
雑誌や新聞、テレビにはそれぞれ協会が存在し、広告主にも協会は存在しているが、WEBでは、「WEBメディア協会」といったものも存在していないし、間で活動している各種ベンダーや事業者の協会もない。まだまだ業界として若いので、明確なルール・ガイドラインがないことも原因かもしれない。
メディア運営者たちが、その矜持を持ってコンテンツを作り、情報を流通させる側にも同様の矜持を求めたいところである。(矜持だけじゃご飯は食べられないので、どうすればその矜持をもってユーザーとコミュニケーション取れるのか本気で考えないといけないですが)
単純なPVでのマネタイズは、すでに限界を迎えようとしており、ユーザーをだます形でのクリックモデルもいずれ飽きられる。そのとき本質的な価値を生み出せているところが、自然淘汰的に残っていくことになるのだと思う。
まとめると、
・誰でも彼でも簡単に情報発信できるようになった
・有象無象のコンテンツを取り込んだ簡易メディアが乱立
・メディアの急増により露出面の供給過多により、広告在庫とのアンバランスが発生
・「枠から人へ」を都合よく解釈したひとたちによる、ユーザーのマインドを無視したリタゲ広告の横行
・ユーザーの広告への不快感の上昇。PVだけでのマネタイズの限界。
・クリックさせるために「ネイティブ広告」と銘打って、本質を理解せずに騙し討ちのクリックで短期的収益を生み出しにいく企業群
・規制をするようなパブリッシャー側の協会もなく、統一ルールが不在
こうした状況が横行した結果、メディア論が色々と語られる素地が作られたのだと思う。
直近の話で、
「メディアの成長×換金効率」という話があり、「1×2」=「2×1」どちらで進むべきか?という話がありましたが、「PV増≠メディアの成長」だと思っている人は、メディアの成長を選ぶのだと思います。
では、この先メディアはどうしたらいいのか?
それを分かっていたら、たぶんビジネスでもっと成功していると思うので、明確には言えないのですが、メディアも自社のオーディエンスをもっと理解すべき、という点だけは確かだと思っています。そうすれば創るコンテンツの方向性もわかれば、広告主に対しても、自信をもって自社のメディアの話ができるはずなんですよね。
#余談ですが、
▼これGunosyの今さっきの人気記事ランキングだが、こういう記事ばかりが増えていく未来を、本当にメディアもユーザーも広告主も求めているのだろうか??